番組やファンCLUB会報で紹介しきれなかったインタビューの全てを、3回シリーズで紹介しています。今日はその2回目です。
骨折後3日でパワーマックス「乗らな負ける」
山 競輪学校時代は、期の中盤に、競走訓練で落車したって聞いたけど。
稲 千葉競輪場で行われた、500バンクの習熟と競走参加の模擬訓練で落車しました。左鎖骨を折って、全治2〜3ヶ月と言われました。
山 ケガをした分、競走訓練の出走回数も減っちゃったんで、技能や競走の習熟も遅れたんじゃない?
稲 他の生徒の半分ぐらいの回数しか走れず、卒業記念レースで卒業のための最低出走回数をギリギリ確保したぐらいです。
山 乗れなくなって、「走りたいのに悔しい」とか精神的に辛くなかった?
稲 ケガをした当初は、医者や教官から「休め」と言われましたけど、それまで感じていなかった「乗らな負ける」という意識が強くなって、3日後にはパワーマックス(負荷をかける電動ローラー)にまたがっていました。
山 競輪学校ではそれ以上に辛いことがあったとか?
稲 実技訓練はむしろ「大したことはないな」って感じていたんですけど、「錬成」と呼ばれる朝のランニングがキツかったです。
山 稲毛君は陸上競技出身なんだから、走るのは得意なんじゃないの?
稲 そのランニングは、上半身裸でやるんですが、真冬は寒くてキツかったです。氷点下になっても薄いTシャツしか着させてもらえないんですよ。
山 南国・和歌山出身の我々からすると、修善寺の冬って、さぞかし寒いんやろね。しかも競輪学校は、修善寺の山の中にあるから、余計に冷えるんやろうねぇ。
タイムが出だしてきて「もうやめられへん」
山 稲毛君は田辺市出身で、中学・高校通じてもともと陸上競技をされていたそうですけど、種目は何だったんですか?
稲 円盤投げをメインに、あと中学では4種競技、高校では7種競技をやっていました。
山 陸上でオールマイティーだった稲毛君が、競輪(自転車競技)を目指したきっかけは何だったの?
稲 高校(和歌山北)の自転車部顧問の上野先生に、高1の時から「おまえ、自転車やらんか」って誘われてたんです。それで試しにパワーマックスを乗ってみたら、同級生の自転車部員より高い値が出たんです。
山 同級生も形無しやね…
稲 むしろ「お前、自転車部にいてくれたらエエのになあ…」って言われました。
山 でも、陸上競技で入った学校(和歌山北・体育科)やから、陸上は辞められへんよね。
稲 だから陸上は3年まで続けました。その間の2年生の時に、プロスポーツとして「競輪」があるというのを知って、すごく興味が沸きました。
山 陸上を引退してから自転車競技を始めた訳ですが、競輪学校用の練習はいつから始めたんですか?
稲 高3の2月から、池田(智毅)さんのグループに入れて頂いて練習を始めました。
山 陸上(円盤投げ)と自転車とでは、使う筋肉も違うでしょうから、初めの頃は大変だったんじゃないの?
稲 始めた時は2週間で「もうムリやなあ…」って思いましたが、タイムが出だしてくると面白くて「もう辞められへん。もっとガンバロー」と思うようになってきました。
山 タイムは1�q独走で、どのくらいだったの?
稲 初めは1分24秒ぐらいだったんですが、2週間で1分14〜15秒にまでなりました。
山 そりゃ、ヤル気になるわなぁ…
(その�Bへ続く)




久しぶりのコメントありがとうございます。アポイント取りの際に師匠の西野支部長から「アイツ、おしゃべり苦手やからなぁ」と聞いていましたので、当日はラジオ用インタビューの前のウォームアップ代わりのおしゃべりが、小1時間ほどのロングインタビューになりました。
この直後の別府(H20年国体優勝の思い出バンク)で優勝、小倉で決勝2着と勢いは止まりません。今の和歌山の若手選手は、互いに切磋琢磨しているので、稲毛君に限らず楽しみな選手ばかりですよね。「みんなS級に早く上がってくれぃ!」と切に願っています。